『猫』を養いて自ら患いを遺す

        海賊 編 序章

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子供の頃から同じ夢ばかり見ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

猛暑の夏島を出て早一週間。

いまだ日中の日差しは強烈だが、朝晩の気温は涼しく過ごしやすい日々が続いている。

洗濯ロープに干されているシーツを、手触りで乾いた事を確認したサンジは、機嫌よく笑みを浮かべた。

 

ふと視界に入ったものを確認すれば、昼食後に昼寝をし始めた剣士が、日向で程よく焼かれている。現在ミディアムと言ったところか。たしか、寝入る前は日陰にいたはずだ。

それすらもいまのサンジには、穏やかで平和、幸せな光景として笑みを浮かべるに値するものだった。

 

はためくシーツが頬を撫でる。

見上げた空には雲が一つ……。

 

「……雲…高いな」

「秋の空だ。あれは『いわし雲』……俺の故郷でも秋になるとよく見た」

 

帰ってくるはずにない返事があった事に驚き、サンジは声の方向に顔を向けた。

小さく呟いた言葉は、風に乗って目覚めた剣士の耳に届いたようだ。

 

「良く知っているじゃねーか?脳みそ筋肉だと思っていたがそーでもないのか?」

「いちいち突っかかって来る野郎だな!」

 

お互いの視線が邪気を帯びて絡み合う。

 

「ゾロ、残念ね。正確には『巻積雲』、別名が『うろこ雲』や『いわし雲』なのよ。空の高いところにできる上層雲なの、秋の空によくできるわ。……そろそろ秋島が近いのね。

 

二人の日常的な諍いは慣れているナミが、空を見上げながらゾロの言った言葉に正式な見解を付け足した。

 

「さすがナミさん!!その美しいお姿の中には、俺が足元にも及ばない豊富で正確な知識が詰まっていらっしゃる!!!」

 

先ほどまでの事など忘れたかのように、サンジは可愛い航海士の知識にウットリとした表情で賞賛の言葉を投げ続ける。

そんなサンジの様子に舌打ちしたゾロが、何気に空を見上げた。

 

「ゾロは故郷で秋にはどんな雲を見たの?」

「あぁ?余り覚えてねーが、『すじ雲』や『うす雲』とかばーさん達が言っていたな」

「『すじ雲』は『巻雲』、『うす雲』は『巻層雲』が正式よ。どっちも空いっぱいに広がると雨が降る確立が高いの」

「博学のナミさんは素敵ですぅぅぅぅ!!」

 

腰をくねらせるサンジを犬でもあしらう様に手をヒラヒラとさせたナミは、ゾロの顔を正面から見た。

 

「ゾロ、今日の夜、チョッパーと一緒に見張りに入って」

「昨日の夜も俺だったじゃねーか!?」

 

話に置いていかれたサンジは、口を出さず静かに二人の会話を聞いた。

 

 

この海峡は、かなり物騒ならしい。

 

麦藁海賊団の事を良く知るナミが敢えて2人体制で見張りをしようと言うのだから、よほど警戒しなければならない海峡らしい。

 

面倒臭いと表情を歪ませ、腹巻の中を掻いているゾロに怯みもせず真っ直ぐに話すナミが綺麗だとサンジは思う。

容姿の事だけではない。その姿勢態度が美しいのだ。

媚びず、俯かず、平伏さず。

己をきちんと持って年上の無礼な男にアーモンドアイの瞳を強気に輝かす。

 

何時か誰かが、この聡明な少女のパートナーとして隣に立つのだろうか?

彼女に劣らず、知的で、勇壮……。

いや、彼女の目にはたった一人の男しか見えていない。

 

誰よりも強い志を持つ真っ直ぐな太陽のように輝く少年。

 

「俺のほうが男前だが……」

 

この頃、独り言が増えた気がする。

これも夢見が悪いせいだとサンジはため息を吐いた。

 

そして、再度会話を続ける2人を見詰める。

その2人の距離は、遠くなく近くなく、話しながらその場を離れていく。

ゾロとナミをサンジは静かに見送った。

 

何を話しているのだろうか、あまり愛想のない剣士が、航海士に向かってニヤリと笑っている。

そんな横顔さえ凶悪なのだが、その表情をみたサンジの胸はズキリと鈍い痛みを感じた。

 

何故だろう、何故ナミではなくゾロの表情に?

ナミを連れて行くのが悔しいのか?

 

意味が分からない。

 

ゆっくりと痛む胸の辺りにあるシャツを手でキツク握り、奥歯をギュッと噛み締める。

 

『……イカナイデ』

 

耳元で小さな子供が囁いた気がした時には、突然視界を無くす白い霧があたりを包んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゾロの姿が森の中に消えていく。

危険だからと高い木の枝に置かれたサンジは、ゾロが狩りに行く間そこでお留守番だ。

 

狩の最中は、危険が伴うとゾロは言う。まだサンジには無理だと静かに窘められる。

もう、自分の身を護る事も、捕食のために走る事も出来るのに。とむくれてゾロを睨めば、大きな手がサンジを宥める。

 

「もうちっと大きくなったら俺の飯も用意しろよ」

 

ニカっと笑ったゾロは、何時もその後有無を言わさずサンジを安全な場所へ置くと、一人出かけていく。

迷子の達人である彼が、何時戻るか分からない中、サンジは森に潜む小さな危険から身を護りひたすら待つのだ。

ゾロの帰りを。

 

 

 

太陽がかなり傾いてきた。

風に揺られる木の枝に身を潜めるサンジの元にゾロはまだ帰って来ない。

今晩は、ここで夜を明かすかもしれない。

気温が落ち始めて空気がグッと冷たく感じる。

ブルリと身体を震わせて小さく身体を丸くしたサンジは、枝から落ちないようにしつつ目を閉じた。

 

『お前は、そうやって何時までゾロを縛り付ける?』

 

いつの間にか日が落ちた森の中、何処からかしゃがれた声の主が枝で眠るサンジに声を掛けた。その姿は闇で見えず、気配も僅かしか感じられない。

ゆっくりと眠りから覚醒したサンジは、顔だけを上げて周りの気配を窺った。

 

『あの虎は、近い内にこの森の覇者となる男。お前は何時まであの男を縛り付ける』

「誰だ!姿を現せ、クソ野郎!!」

 

暗闇からの声に負じと、静かではあるが威嚇の声色をみせ、サンジは言い返す。

 

『……威勢だけはいいな。だが、所詮威勢だけだ』

「てめェは誰だっ!」

 

姿を確認する事を諦めた子猫は、木の枝の上に立ち上がり毛を逆なで心情を表す。

 

『その気性の荒さもあの虎の好みと言うわけか』

「……迷子虎に何か用事か?」

『用のあるのはお前だよ、小さな猫』

「……猫?」

 

聞き覚えの無い言葉に、サンジは小さく首を傾ける。

 

「なんだ?その『ネコ』って言うのは?」

 

その言葉に影の主は、声を立てて笑った。

 

『猫なのに猫を知らんのか?フォッフォッフォッフォ』

「猫、猫って五月蝿いぞっ!!」

『お前は自分が何者かも知らんのか?』

「何者って……俺は虎だ!」

『お前は、猫だ』

「違う!」

 

意味の分からない言葉に、サンジは恐れを抱いた。

自分はゾロと同種ではないと言うのだ。

 

そんなことは無い。

だって、ゾロは優しい目で頭を撫でながらずっと一緒にいると約束してくれた。

 

否定したサンジの必死の声に、また暗闇から癪に障る笑い声が聞こえる。

 

『誰が見てもお前は猫だよ、サンジ。虎にはならない』

「嘘を言うな!ゾロは……そんな事言わなかったっ!!アイツは嘘をつかない、だからてめェが嘘つきだっ!!」

 

その言葉に一瞬の間ができ、そして静かな返答があった。

 

『では聞くが、ゾロはお前の事を【虎】だと言ったのか?』

「――― っ!!」

 

その言葉にサンジは奥歯を噛み締めた。

ゾロは決して嘘はつかない。

だが、サンジは言われたことが無いのだ。

 

『お前は虎だ。』……と。

 

逆立てていた毛が威力を失い、耳が下に垂れると同じく視線が地面へと向く。

そんな事は無い。クソ野郎の戯言だ。と、強く心に思っていても、思い当たる事が多すぎて再度否定する事ができない。

 

何時までも大きくならない身体。

違う鳴き声、細い手足。

 

ガクガクと震え立っている事ができなくなったサンジは、木の枝に座り呆然と暗闇を見詰めた。

 

『雨季が終わった時、アイツは交尾をしなかった。このままでは子供を得る事ができない。それは、強い虎がこの森から消える事。……森の頂点は、ここに住むもの全ての頂点。全てを支配し、規律を作り、生かしてくれる王。お前のような弱者に囚われて身を滅ぼすのを待つ王など、この森の頂点に立つ事は出来ない。それは、この森にとっても死活問題だ』

 

暗闇からの言葉は、サンジの耳に届くがそれを理解しようと子猫はしない。

自分を否定されて、大好きなゾロの身が滅びると聞かされて、子猫が素直に理解する事など不可能な話だ。

 

「俺と居ると……、ゾロは……死ぬのか?」

『死ぬか死なぬか、奴が決めること』

「俺と居ると……、ゾロは……一番になれないのか?」

『弱者を抱えて頂点に立つ事など土台無理な話し』

 

見開いた蒼の瞳からは、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちる。

 

「俺はただ……、ゾロと一緒に居たいだけなのに……」

 

贅沢は言わない。

一緒に狩になんて行けなくて良い。

ゾロに素敵なレディーが現れても良い。

 

ただ、ただ、傍にいたい。

同じ空の下、同じ空気を吸って、同じ風景を見ていたいのだ。

 

「………その事も、俺には願ってはいけない事なのか?」

『猫であるお前には、高慢な考えだな。猫は猫らしく、捕食されて生を全うすれば良いのだ』

 

完全なる否定の言葉に、これ以上言葉も出ず。

声を殺し止らない涙を拭くこともできず、サンジは一人静かに泣いた。

 

 

ささやかな願いすら否定されて、だた泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

色々な音が入り乱れている。

サンジは、濡れた瞳をゆっくり開け潤む視界で辺りを見回した。

 

情けなく甲板にへたり込んでいる自分の周りには、大勢の敵。

その敵から自分を護ろうと囲み戦っているのは、剣士と船長だ。サンジの正面をゾロが、背後をルフィが護り敵に技を繰り出している。

 

いつの間に敵が攻めてきたのか覚えが無い。

覚えの無い事と言えば、何故自分は泣きながらへたり込んでいるのか記憶が無い。

 

ただ、無性に恥ずかしかった。

自分は護る側の人間であって、護られる立場ではない。海賊船のコックであると同時に、海賊船の戦闘員でもあるのだから。

そして、心の中は重く苦しい。

大声で叫び出しそうなほど切なく、苦く、痛く。

 

止める事の出来ない涙が、次々と溢れてくる。

理由も分からないまま戦っている仲間に視線を向ければ、一瞬目が合った剣士が大声を張り上げた。

 

「立て、コック!戦え!!」

 

その言葉に返事すら出来ないサンジは、戦う白い背中を力なく見詰めていた。

 

「サンジ!大丈夫か?」

 

ゾロの声に反応した船長は、厳しい顔でサンジの表情を窺っている。相手を倒しながもその行為が出来ると言う事は、敵の実力が弱いのか、船長が強すぎるのか。

 

「サンジ!」

 

もう一度船長がサンジに声を掛けた。

 

「ちゃんとサンジはここに居るから、心配するな!」

 

船長の言った意味がよく理解できなかったが、サンジはゆっくり立ち上がり胸ポケットから煙草を取り出すと、火をつけ美味そうに紫煙を吐き出した。

 

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーー!!!!!」

 

突如叫びだしたサンジが、護られたスペースから飛び出し、甲板に群がる敵へと駆け出した。

今は唯、この胸の苦しさから開放されたくて。

目の前の敵を蹴り倒す事で、何も解決する事はないのだが。

 

 

サンジの何時もらしからぬ戦い方に、目を細めた剣士は何か言いたげに唇を僅かに動かし、一瞬の間の後奥歯を噛み締めた。

 

 

 

数時間後、サニー号は何事も無かった様に次の目的地へと航海を始めていた。

 

 

 

 up 2007 09 10

海賊編 序章