『猫』を養いて自ら患いを遺す

海賊 編 第2章

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――― そこで得たものは、長い絶望の日々だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『猫』を養いて自ら患いを遺す

        海賊 編 第2章

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シンクの中。

水を張った金タライには、更に水を冷たくする為の氷を幾つも入れて、今日の昼食用に用意したトマトとキュウリ、それとレタスにパプリカを浮かべる。

夏島を抜けて尚、日中の暑さが堪える今日は、キンキンに冷えた麺類を出そうとサニー号のコックは決めていた。

食欲旺盛な仲間たちの為に、大きな寸胴に湯を沸かし保存が利く乾麺を大量に倉庫から運んだ。

 

鼻歌交じりで調理するサンジはご機嫌。

少し前に立ち寄った島で手に入れた醤油を使ったツケダレと、ゴマを摩り下ろした風味豊かなタレ。ああ、あとは大根おろしを搾ったおしぼ汁も捨てがたい。

 

そんな考えを段取り良く行動にかえている。

添えるサラダのドレッシングは、少しパンチの効いた辛めにしたほうがいいのか?と首を傾げる。

 

「お子様口な奴らも居たなぁ…」

 

呟く声もトーンが高い。

必要以上にテンションが高いのは、訳があった。

虚勢でも張っていないと自分が崩れ落ちそうな不安感に襲われる。

勿論、自分が万能出ない事など、幼かった無人島で痛いほど経験した。しかし、そう言う理由から来る不安感ではなく、漠然とした何かが自分に襲い掛かって来ている。……そんな感じだ。

 

そう感じるようになったのは、ここ数日の出来事のせいか?

一度は、戦闘中意識をなくし、混戦模様の最中甲板に膝を着き、涙を流していた。

一度は、その内容は覚えていないが、夢で泣いて夢精をした。

 

何故泣いていたのか、その時の苦しくて切なくて、愛しくて、苦い想いは今も胸の奥に住んでいる。

グッと握りつぶされそうな、息も出来ないような寂しさ。

サンジにとってそんな経験は、今まで生きていた中で感じた事の無い感覚だ。

 

チャプンと水道から金ダライに水が一滴落ちた。

何気にその水面を覗き込んだサンジの目に映ったのは、自分の顔ではなく小さな茶トラの子猫だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日は風の強い一日だった。

森の長老の指示で木の枝に身を隠し、空気と溶け合う感覚でゾロの帰りを待つ。

ゾロに出来て、サンジには出来ない気配を殺す。と言う作業。

思っている以上に難しいとサンジは小さく息を吐いた。

 

大型の肉食獣のゾロは、狩の後自分の食事は済ませてサンジの食事分を持って帰ってくる。

何時もは安全な塒(ねぐら)でそれを待つのがサンジの勤めだった。

しかし、今日は違う。

今までサンジが思っていた事を行動に移す晩である。

 

数ヶ月前に聞いた長老の話。

その話を聞いた時から、サンジの心は硬く揺ぎ無く、そこに向かっていた。

その前にもう一度ゾロに会いたいと思ったのは…自分の我が侭。

 

そして、残ったゾロが、サンジの取った行動を聞いてどう動くのか、興味もあった。

 

 

 

月明かりが葉の間から緑豊かな大地へと、優しい光を下ろす中、ノソリノソリとゾロが歩いてくる。

独特のリズム、ピンと張り詰めた静寂な空気。

サンジはその音とゾロが支配する空気が大好きだ。

何時だってゾロが帰ってくるその瞬間を、心の底いや身体全体で待っていた。

今は、止め処なく涙が溢れてくる。

 

「……ぐる眉?」

 

何時もの場所にサンジの気配がないことに慎重な低い声で、ゾロはサンジを呼ぶ。

 

「……アホ、チビ、アヒル、毛玉」

 

好き勝手なゾロの言葉さえ、サンジにとって今はとても嬉しい。

自分を見てくれているゾロが愛しい。

 

「どこだ!サンジ!!」

 

大きな声でゾロが叫ぶ。

普段は決して呼ぶことがないその名前で。

 

飛び出して抱き着きたくなる衝動を、ギュッと握り締めた掌で中和し、奥歯を食い縛り事の成り行きに身を委ねるサンジ。

慌しく辺りを調べるゾロに、暗闇の中からしゃがれた声がゾロへと降り注いだ。

 

「捜しても無駄だ、森の若き王よ」

「猿の長老か?……何が無駄なんだ!?」

 

歩みを止めたゾロは、その顔をクッと正面に向け目力を強くしてその気を強くした。

弱い動物は、それだけで足が竦み身動きできなくなるだろうその力。

 

「……サンジを何処にやった?」

「ワシャ何処にも」

「うるせぇ!!」

 

静寂の森に激が走る。

寝静まった鳥達が、一斉にその翼を広げ安全な場所を求めて月夜へと飛び立つ。

暫くして再び静寂を取り戻した森に、飄々とした声が語りだした。

 

「アヤツは、自分が猫だと知っていたのだ」

 

その言葉に綺麗な柳眉が片方ピクリと動く。

 

「……知っていた?教えた。の間違いじゃないのか!?」

「……否定せんよ」

「てめェ!!」

 

再びの恫喝に、樹の上で身を潜めたサンジも震えた。

あんなに激しいゾロは知らない。狩の時も、テリトリーを護る戦いの時も、何時だって凶暴な笑いを口に浮かべて戦っていた。

まるで遊んでいるように。

なのに、今のゾロは、怖ろしいほど黒い空気を纏っている。

 

「サンジに何を吹き込みやがったっ!!」

「若き王よ。お前の怒りを買うことを承知で、あの猫には立場を知ってもらった。お前の立場も、あの猫の立場も」

 

小さな物音しない空間。

張り詰めた空気にサンジは、小さく唾を飲み込んだ。

 

「あの猫がお前の傍にいることで、この森が死んでしまうと教えたんじゃ」

「何で森が死ぬんだ?」

「……この頃テリトリーを荒らす者が増えているだろう。西にあった森が、人間によって伐採されて無くなったそうじゃ。住むところを失った多くの者たちが、この森と南の森に移動したと聞いている。無論……お前以外の虎も住み着いた」

「なら…そいつ等にこの森護らせりゃ良いだろうが」

「…………誰もそれは望んじゃいない。この森を護る頂点に相応しいのは、お前だと皆思っているのじゃよ、ゾロ」

 

暫くその言葉を胸のうちで反復していたのか?

間をおいたゾロは、鼻を鳴らした。

 

「それとサンジの事、どう繋がるんだ?アイツが傍にいちゃこの森が護れないとでも言うのか?……俺はそんなに弱かぁねーぞ!」

「わかっとるよ」

 

どこか諦めに似た溜め息が、長老猿から漏れた。

 

「……それども皆思うのじゃよ、お前の支配する森を、お前の統治する世界を、お前の血を引く子孫を」

「………」

「あの猫は、お前の子は作れない。分かっているだろう、ゾロ」

 

グルグルと唸るゾロの声。

地を這う不機嫌な音が、サンジの耳にも届く。

 

そう、自分にはゾロの子を産んでやる事が出来ない。

ゾロの未来の為、ゾロの仲間の為、ゾロが大切にしている世界の為に自分には何ひとつしてあげられる事がない。

勿論、自分は男だからゾロの保護下にいることを良しとはしないプライドもある。

 

いやいや、サンジが望むことはそんな事じゃない。

子を産み伴侶として傍にいたいわけではない。

 

 

 

 

 

サンジが望む事は唯1つ……。

 

 

 

 

 

「アイツは何処へ行ったんだ」

 

ゾロの静かな声が響いた。

その問いに長老猿も、身を潜め成り行きを見詰めている仲間達も、そしてサンジも答えようとはしない。

痺れを切らした虎は、もう一度同じ問いを投げた。

 

「アイツは、何処へ、行った?」

 

一言、一言区切り有無を言わせない語気。

渋々と長老猿はその問いに答えた。

 

「あの猫は……」

「猫は?」

 

まだ渋る声にゾロの低い声が静かに憤るのが感じられる。

 

「……あの猫は、『願いの女神』に会いに行ったよ」

「――― なっ!!」

 

事の成り行きを見守った後、サンジは確かに『願いの女神』に会いに行く。

そのつもりでいる。

 

「あの馬鹿っ!勝手なことしやがってっ!!」

「ゾロ、何処に行くのじゃ!」

 

駆け出すゾロに長老猿の慌てた声が背中にかけられた。

 

「アイツの所に行って止めさせるに決まっているだろうが!」

 

立ち止まるゾロは、焦る気持ちを言葉に乗せて投げ捨てる。

そして、一拍間を置くと、今度は冷静な声で事の成り行きを見守る全て者のへと宣言した。

 

「俺は確かにこの森の頂点に何時かはなる。それは俺の意思。だがな、それはサンジの為だ。サンジが好きな仲間、サンジが好きな草木、サンジが好きなこの森。だからこの森を俺が護るんだ。アイツが大人しく護られる玉じゃないって事はよく分かっているが、それでも、サンジが愛するものを護りたい決してお前たちの為じゃない!」

 

再び駆け出した虎の背に、皆の声が降り注がれる。

その中を慌てて追いかける小さな身体。

 

身を潜めたサンジが飛び出し、ゾロの背を追いかけても間に合う事無くどんどん引き離されていく。

 

「ゾローーーーーーーー!!」

 

小さな身体が壊れるほどの大声は、遠く離れた虎に届く事はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「良かった!!気が付いたんだね!!」

 

涙でグチョグチョの顔を笑顔に変え、サンジの顔を覗き込むのはこの船の船医。

サンジは、新しくなった麦藁の海賊船内にある自分の城キッチンに隣接したフロアの天井を虚ろな瞳で見詰めていた。

 

長椅子に横たわったサンジは、チョッパーとロビンに見守られている。

額に濡れた白いタオルを乗せられて、ひんやりとした感触が心地良いとサンジは小さく息を吐いた。

 

「よかったわ、気が付いて」

 

ホッとした女性の声は、ロビン。

その声色を聞けば、彼女も心配していたと分かる。

 

「ここに着たらキッチンでコックさんが倒れていたから……」

「サンジ、大丈夫か?」

 

ゆっくり瞳を動かし自分の置かれている状況を把握する。

前にもこんな事があった…?と思いながら、自分がどうしてしまったのか頭が回ってこない。

心配する二人に囲まれて、寝かされた椅子の硬さが背中に伝わるが、その事を口に出して抗議する気力も無い。

『大丈夫』と声を出したいのに、出てきた言葉は見当違いの言葉だった。

 

「俺の願いは唯1つ……傍で眠りたいだけなんだ……」

「サンジ?」

「他は何一つ望まない。何も……愛も夢も……希望も……いらな………い」

 

その言葉と共にサンジは再び眠りに落ちた。

 

「……どう言う意味なんだろう、ロビン?」

「分からないわ」

 

お互いに顔を見て首を傾げる考古学者と船医。

そしてまた、規則正しい寝息を立てたサンジに目を落とし、先程口に出した言葉をゆっくり呟いた。

 

「他は何一つ望まない。何も、愛も夢も、希望もいらない。……だったかしら?」

「寝ぼけていたのかな?」

「そう見えなかったけど……」

 

眠りを妨げてまで聞く話ではない。

どうしたものかと思案する二人は、後ろから聞こえてくる足音に振り返りその持ち主を確認した。

 

「ここに寝ていたら飯にならないだろう」

「そうだね。ゾロ、悪いけどサンジを部屋に連れて行ってくれるか?俺はサンジの代わりに夕飯作るから」

「私も船医さんのお手伝いをするわ」

 

無言でチョッパーの指示に頷いたゾロは、穏やかな顔で寝ているサンジを大事そうに抱え上げた。

そしてフと漏らした笑みは、何処までも優しくて。

 

気が付いたロビンは、口元を押さえて言葉を飲み込んだ。

消して言ってはいけない。そんなゾロの雰囲気に言葉を噤む。

 

 

 

 

 

ベッドに寝かされたサンジを覗き込んだゾロが、額に優しく唇を落とす。

そして、僅かに唇がふれる距離で囁いた。

 

「俺の望みは唯1つ。お前が俺を思い出すことだ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

up 2007107